平安京は、794年に桓武天皇により長岡京から遷都された都です。東西南北に走る道路によって、正方形に区画され、中央を走る朱雀大路を中心に、それぞれ今のような住居表示が成されていました。藤原氏をはじめとする上流貴族は、おもに左京北部に居住していました。
 その後、幾多の戦乱を経て、荒廃した都を豊臣秀吉が、天正の地割と称する改革を行い、現在の長方形の町並みに改造、商業都市として更に発展しました。
-  漆を塗った木などの器の事を通常「漆器」と云います。 漆器は、紀元前1600年頃、中国は殷(いん)の時代に発祥したと伝えられています。 しかし、日本にも古くは縄文式時代の遺跡から、漆器が発掘され、既に存在していたと、思われています。中世以降、欧米諸国では、磁器のことをchina、漆器のことをjapanと呼ぶようになり、漆器は日本の特産品として、世界中に定着しました。現在、原料の漆は国産は僅かで、大半は中国からの輸入である。

 日本国内各地に産地はあるものの、その歴史となると、やはり日本文化の中心であった宮廷文化の中に取り込まれていた京漆器が、代表格となるのではないでしょうか。奈良・京都を中心に1300年続いた文化の中で京漆器は芸術品としての品格を否が応でも備えてしまったのではないでしょうか。
 西暦1100年代頃から、宮人達の呼び名として、武士・武家に対して公家-くげ-と云う言葉が使われ始めたらしい。平家滅亡以後、政治の実権力は朝廷から幕府に移り、次第に豪華絢爛文化から、質素かつあくまでも格式高く、高度に洗練された京文化へと脱皮せざるを得なかった時代の流れの中で、進化を遂げた京漆器は、見事と云う外ない。緊張感を備え、贅肉を削ぎ落とした美しさが見えて来そうだ。 -
 平清盛は、平家の中でも傍系であったが、保元・平治の乱で台頭し、朝廷の内乱に乗じて後白河法皇に近づき太政大臣まで上りつめ、政治を意のままに操り、栄耀栄華を極め、「平家にあらずんば人にあらず」とまで云わしめた。しかし、清盛没後の凋落は早かった。

 京都大原寂光院には、安徳天皇と共に滅亡した平家の霊を弔うため出家した母建礼門院徳子を、後白河法皇が訪ねた折に、涙で応対した徳子が用いたとされる盆が現存すると云われている。それがこの大原盆である。以後、この盆が建礼門院のトレードマークになったとか。
 京漆器が芸術作品として進化を始めたのは、室町時代からであると云われている。唐から受け継いだと思われる「蒔絵技法」の独自の発展の基として、平安朝時代の「源氏物語絵巻」や「わび」「さび」と云った言葉と共に始まった茶の湯文化の影響が大きかったと思われる。

 平安時代の蒔絵を経て、室町時代には更に進化した蒔絵の技法により三次元的な立体画像に近い、より優美で繊細な製品が生み出されるようになり、現在受け継がれている技法の基礎は、この時代に確立されたとも云える。
 この作品の題材は、紀貫之編纂とされる「古今和歌集」全20巻中第七巻賀歌、塩の山歌絵から。
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 銘々皿とは、小皿・取り皿の様に銘々に大皿の食べ物を分ける時に用いる4~5枚組の皿の事を云う。通常は、それぞれに異なった絵柄を用いる事が多い。

 意匠題材は、源氏物語全54帖中22帖「玉鬘(たまかずら)」より玉鬘が乳母と共に筑紫から京に向かう船出を思い起こさせる波をあしらったもの。平面蒔絵技法の代表的作品。
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